スリーズ・キーノート
階段を降りてる途中、不意に擦れ違う。
まだ若い、と言っても30代くらいだとは思う。きっちりとした漆黒のスーツが似合う長身。切れ長で、冷たい目をした男。
擦れ違った時、一瞬だけ目が会う。一秒もないその刹那は、僕はものすごくゆっくりに感じられた。音も無く、その視線の交わりだけが世界の中心のように。
誰?って疑問に思ったけど、僕は目の前にある、遅刻というものの方が大事だった。
目は相手から反らされ、スローモーションは終わる。音も戻ってきた。僕は焦りに駆り立たせられ、もう男の事は忘れていた。また階段を駆け降り、学校へ向かう。
マンションから出て、ベランダで洗濯物を干してる母さんに手を振って。
その男のおかげで、僕は母さんの事を知る事になる。平々凡々だと思ってた、母さんの事を。