覆水
十
その日は曇り空だった。
彼はベランダに出て、自分と舞花の洗濯物を中に入れる。
彼等は、同じアパートに住んでいた。あのマンションが取り壊しになった時、どちらからとも無く、彼等は同じアパートに住む事を決めたのだ。
村田が入水してから、丸三年。遺体は発見されたが、あの絵がこの世に出て来ることは、遂に無かった。
「舞花。もう時間だ。早く行かないと」
「うん。もう少し」
舞花が聞き耳を持たないので、彼は喪服を翻し、溜め息を付きながら洗濯物を居間に差す。
彼は、大学を卒業した後、国語の教師になっていた。奇しくも、舞花の父、要司と同じ。
彼が、村田が欠けたことに寄って悲哀という感情を抱いた時、彼の才能とも言えた純粋性は、俗界に於ける路上の塵となり、粉塵と紛れた。
彼が、舞花との舐め合いに寄って背徳の柔肌を知った時、彼の淡き激賞の夢も、又、幻と潰えた。
洗濯物を差し終わった彼。通り道、壁に飾られた絵に目を遣る。
何時の頃かは分からない。斜陽に照らされ、満面の笑みを讃えている自分。
彼は、目が離せない。最早、忘却の彼方に消え失せた、思い出せぬ憧憬。
彼は長々とそれを見、そうして時折言葉を零す。
一方、舞花は今もソファーに座り、最早擦り切れた村田からの贈り物を読んでいる。
贈られたのは、森鴎外の悲恋小説。
「舞姫」
そうして時折涙を零す。
「彼等は、絵と本。思い思いの品を見ながら、夢を見ている。
幾らこぼした所で、盆に返る事の無い、物悲しい夢を見ている」
舞花は、そこまで書くと、感極まったのだろう。
「……ひっく。……ひっく」
漆黒の部屋に嗚咽が響く。舞花は、泣きながら最後の言葉を打ち、崩れるように伏せた。
止まない雨。その隣で、爛々と輝くパソコン。そこには、最後にこう記されてあった。
立野舞花著。「覆水」と。
―end―
彼はベランダに出て、自分と舞花の洗濯物を中に入れる。
彼等は、同じアパートに住んでいた。あのマンションが取り壊しになった時、どちらからとも無く、彼等は同じアパートに住む事を決めたのだ。
村田が入水してから、丸三年。遺体は発見されたが、あの絵がこの世に出て来ることは、遂に無かった。
「舞花。もう時間だ。早く行かないと」
「うん。もう少し」
舞花が聞き耳を持たないので、彼は喪服を翻し、溜め息を付きながら洗濯物を居間に差す。
彼は、大学を卒業した後、国語の教師になっていた。奇しくも、舞花の父、要司と同じ。
彼が、村田が欠けたことに寄って悲哀という感情を抱いた時、彼の才能とも言えた純粋性は、俗界に於ける路上の塵となり、粉塵と紛れた。
彼が、舞花との舐め合いに寄って背徳の柔肌を知った時、彼の淡き激賞の夢も、又、幻と潰えた。
洗濯物を差し終わった彼。通り道、壁に飾られた絵に目を遣る。
何時の頃かは分からない。斜陽に照らされ、満面の笑みを讃えている自分。
彼は、目が離せない。最早、忘却の彼方に消え失せた、思い出せぬ憧憬。
彼は長々とそれを見、そうして時折言葉を零す。
一方、舞花は今もソファーに座り、最早擦り切れた村田からの贈り物を読んでいる。
贈られたのは、森鴎外の悲恋小説。
「舞姫」
そうして時折涙を零す。
「彼等は、絵と本。思い思いの品を見ながら、夢を見ている。
幾らこぼした所で、盆に返る事の無い、物悲しい夢を見ている」
舞花は、そこまで書くと、感極まったのだろう。
「……ひっく。……ひっく」
漆黒の部屋に嗚咽が響く。舞花は、泣きながら最後の言葉を打ち、崩れるように伏せた。
止まない雨。その隣で、爛々と輝くパソコン。そこには、最後にこう記されてあった。
立野舞花著。「覆水」と。
―end―