覆水

 その日は曇り空だった。
 彼はベランダに出て、自分と舞花の洗濯物を中に入れる。
 彼等は、同じアパートに住んでいた。あのマンションが取り壊しになった時、どちらからとも無く、彼等は同じアパートに住む事を決めたのだ。
 村田が入水してから、丸三年。遺体は発見されたが、あの絵がこの世に出て来ることは、遂に無かった。
「舞花。もう時間だ。早く行かないと」
「うん。もう少し」
 舞花が聞き耳を持たないので、彼は喪服を翻し、溜め息を付きながら洗濯物を居間に差す。
 彼は、大学を卒業した後、国語の教師になっていた。奇しくも、舞花の父、要司と同じ。
 彼が、村田が欠けたことに寄って悲哀という感情を抱いた時、彼の才能とも言えた純粋性は、俗界に於ける路上の塵となり、粉塵と紛れた。
 彼が、舞花との舐め合いに寄って背徳の柔肌を知った時、彼の淡き激賞の夢も、又、幻と潰えた。
 洗濯物を差し終わった彼。通り道、壁に飾られた絵に目を遣る。
 何時の頃かは分からない。斜陽に照らされ、満面の笑みを讃えている自分。
 彼は、目が離せない。最早、忘却の彼方に消え失せた、思い出せぬ憧憬。
 彼は長々とそれを見、そうして時折言葉を零す。
 一方、舞花は今もソファーに座り、最早擦り切れた村田からの贈り物を読んでいる。
 贈られたのは、森鴎外の悲恋小説。
「舞姫」
 そうして時折涙を零す。



「彼等は、絵と本。思い思いの品を見ながら、夢を見ている。
 幾らこぼした所で、盆に返る事の無い、物悲しい夢を見ている」
 舞花は、そこまで書くと、感極まったのだろう。
「……ひっく。……ひっく」
 漆黒の部屋に嗚咽が響く。舞花は、泣きながら最後の言葉を打ち、崩れるように伏せた。
 止まない雨。その隣で、爛々と輝くパソコン。そこには、最後にこう記されてあった。



 立野舞花著。「覆水」と。



 ―end―

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