パラドーム
「大切な人」、彼も呟く。
 色々な表現があるのは言うに及ばない事であるが、大切な人……。
 難しい表現である。
「へえ、そうなの」
 園絵が、ビールを傾けながら言った言葉には、少し棘があるようにも聞こえる。
 見れば見るほど彼女にそっくりな園絵。彼は、動悸を微かに感じ始める。居たたまれなくなる程の何かは、園絵の、光の無い無気力な瞳の所為であった。
 彼は、冷蔵庫に向かい、ズラッと並べられたビールをひとつ取り、また戻る。そして、四本目のそれを開け、一息で四分の一ほど胃に流し込んだ。酒の肴など入らないほど、彼の胃は拡張している。
「で、実はね」
 園絵が切り出す。たった今飲んだばかりなのに、頬は火照り、妖艶ですらある。
「珠美。また、一緒に暮らさない? ほら、昔みたいに」
 その話を訊いた彼が彼女の方を振り向いた刹那であった。
「なんで?」、彼女は訊いた。冷めた声である。
「いや、だから、昔みたい「ふざけないでよっ!!!」
 唐突にである。世界が俄かに割れるほどの怒声。彼女の瞳には、憤激の色が、烈火の如く。
「ちょ、ちょっと、珠美……」
 流石に驚いたのか、園絵が口を挟む。だが、端から見ればふって湧いたかにみえる彼女の怒りは収まらない。
「お母さん。私と状を捨てたのは誰ですか? お父さんが、どれだけあなたが居なくなってから苦労したのか分かりますか。分からないでしょ? 中学校の体育祭で、お父さんが『ごめんな』と言って、作ったことの無い焦げた唐揚げを、本当に申し訳ない顔で、私達に謝って、『もっと上手くなるからな』って……グスッ。絶対分からないはずよぅッ!!!」
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