パラドーム
 彼は、そのまま一睡もせず、彼女が起きるのを待つことにして、また、リビングに戻り、彼女が寝ているベッドに腰を下ろす。手紙は、そっとポケットに閉まう。
 彼女の寝顔を見やると、不意に涙が零れ出てきたが、彼はそれを拭わなかった。全ての罪に気付いてしまった彼には、そのくらいでしか、自分に罰を与えられないのである。
 潤んだ瞳は、緩やかな波を眼前に映し、それはまるで海のようであった。
 そうして、彼女が起きる二時間ばかりの静寂を、ひとり、歯噛みしながら耐え忍ぶ。忘れていた、――いや、忘れているようなポーズだったのかも知れない。分からないのだ――様々な事を思い出す。
 最も過ぎるのは、去年、八月の記憶。
 彼が逃げた、最後の記憶。
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