パラドーム
「はあっはあっ」
 煙草の所為だろう、息切れが著しい彼。彼女は、ぴくりとも動かなかった。
 気付けば、横には満開の桜の木。
「……なんで?」
 どのくらいの時間が経過したのか。
 彼の頭では把握できない。
 枯渇は、心まで。
 暫くした後、彼女は呟くように言った。
「なんで急に行くなんて言うの? だって、やだ。絶対やだもん!」
 彼は、何も返さない。
「やだ! やだ! 絶対嫌! ねえ、ガク。ずぅっとあのアパートに居よう。私、ご飯だって作るし、お金だってあるし、何だって二人なら出来るでしょ? 一人じゃ、何も出来ない……」
「タマ」
「ああ、そうよ。あのアパートも出てさ、どこか知らない街に行こう? きっと楽しいよ。何時までも楽しいんだか……」
「タマ!」
 彼が、最も忌み嫌う大声であった。彼女は、驚いて口を噤み、懇願と憐憫を合わせたような表情で彼を見る。
「……タマ、僕はね、気付いたんだよ。何時も何時も逃げてばっかりだったんだ。昨日まで、何も気付かなかった。僕の恐れていたのは、僕自身だった。ねえ、タマ。僕は本当に狡くて身勝手な男なんだ。けれど、罪には、罰を。当たり前の事。僕は、今までやってきた事に責任を取らなければならないんだ。みんな、泣いてるんだ」
 しかし、彼は眼前の彼女がその一部であるという事に、単純に気付かない。これが、彼の弱さたる所以である。
 一方通行なのだ。そこしか、見えていないのだ。
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