パラドーム

一章

 列車は、ビル街、見知らぬ川、深いトンネルを越え、定期的に刻む車輪の律動と共に、何処までも走り抜けていく。
 そんな風景を横目で見ながら、「何処まで行こう……」、彼は呟いた。
 元々、行く宛など何処にもない。突発的に、彼は家を払っていた。
 持ち物と云えば、リュックに詰められた少量の衣類、音楽を聴く為のMDプレイヤーのみ。携帯は、既に彼の手元を離れ、今頃は駅構内のゴミ箱で、一介の塵となっている事だろう。
 ……せめて、親戚の番号だけでもメモっておけば良かったか……。
 そう考える弱みを、慌てて彼は抑制した。
 水面下で停滞する甘えは、未だ彼の中をさまよっている。漠然と気付き始めているのだ。自分の選んだ道の厳格さを。
 然し、強ち不安だけではない。一種の期待を、同時に彼はひしひしと感じていた。それは、相反する葛藤であり、幾分彼を混乱させたが、そうも言っては居られない。シーザー宜しく、賽は投げられたのだ。何の音もなく。
 流石に、窓からの風景を見ているのも飽きてきた彼は、縦列編成の四人掛けの席、其処から、隣の対称と云える席にふと目を遣る。
 其処には、何時乗ってきたのだろう、若い母親と娘(年の頃は五歳くらいか)が、仲睦まじく外の風景を眺めていた。
「ママ、あれはなあに。あれは」
 娘が母親に訊いている。無邪気で、澄んだ声だ。歳の若い母親も、甘い声で其れに答えていた。
 衝撃は、刹那。胸が暴れ出す。彼は、急激にそれを認識する。ただただ息が出来なくなる。まるで、風切り音と共に、宇宙に投げ出されたかのような、不思議な感覚。勿論、現実に投げ出されたのであれば、彼の心の臓は忽ちにその機能を停止するだろう。然し、敢えて彼はそれを否定しない。比喩的であれどうであれ、彼はその時宇宙に居たのだ。
 何とか平静を装い、彼はもう一度親子を見やる。そして、小さな女の子が、此方を見ていることに気付く。
 日本人形のような、清楚な表情。女の子は、急に自分が目を合わせた事に、少し驚いたようだったが、その後、無邪気な笑みを隣人の彼に差し出してくれた。
 それはまるで、私の幸福をお裾分けしてあげるとでも言いたげな、凛とした、其れでいて満面の笑顔。
< 2 / 116 >

この作品をシェア

pagetop