パラドーム
「ラストオーダーになりますけれど、御注文はございますか?」
「えっ……」
店員が店の終わりを告げる。彼は時計を見た。時間は十二時を指している。
その後、彼は彼女の一挙手一投足にどぎまぎしながらも、概ね楽しく時間を過ごしていた。
そして、気が付いたらこんな時間になっていたのだから、今日の彼の時間は、他の人に比べて半分ぐらい少ないのかも知れない。
「もう帰ろっか?」
「あっ、うん……」
彼女は彼を一目見ると店員に会計をお願いした。
会計は、一万円弱と二人にしてはかなり高めな方だが、彼女は頑としてここの払いは自分ですると聞かない。
彼もそれには激しく応戦したが、経験的に言ってそれは何処からどう見ても負け戦である。
「私が誘ったんだからいーの! えへっ」
彼女はそう言うと、バッグから赤い長財布を出して、皺一つない一万円札を店員に渡した。
そして、持っていた携帯を手慣れた手つきで操作し、直ぐさまタクシー会社に電話をすると、それは十分もあれば着くとの事、彼等は早めに外で待つことにする。
彼等があまり大きいとは言えないその店を出ると、待っていたのは、ひんやりとした微風。
「流石に夜は寒い!」 彼女は身体を折り畳むようにして屈むと、そう口にする。
暑かった夏は終わり、季節は秋に差し掛かろうとしていた。
また、秋である。彼は忘却の彼方に忘れ去られた記憶が甦りそうになったが、頭を振ってそれに抗った。そうしてみると、酔っ払っていたからかは分からないが、すんなりその影は息を潜める。
「そうだね……」
そして、彼はそれだけを言うと、リュックから赤いチェックのワイシャツを引っ張り出して彼女に掛けてあげた。彼女は震えていたのだ。彼は全然寒くは無かったので、半袖だったが自分の分は用意しない。
「ありがと!」
そう言った、彼のワイシャツを着た彼女を見ていると、それは現実味に欠けていると彼には思わずには居られなかった。
朝、家を出てなにもかもを失ったはずの彼が、今日偶然知り合った女の身を案じ、自分の服を掛けてあげている。
……つまらない小説みたい、そう彼には思えてならなかった。