いわし雲のように【SS集】
『恋ってさ、靴みたいね』
あの日、君がいった。
今になってその意味に気付いた僕はどれほど愚かなやつなんだろう。
かたっぽだけしかない靴じゃ僕らはどこにも行けなくて、その場に立ち尽くすしかない。
いっそ脱ぎ捨てて新しい靴を探せばいいのだろうけれど、その片足を包み込むあたたかさに人はなかなか脱ぐことが出来ない。
『ほら。あなたとならどこへだっていけるわ』
うれしそうに、ちょっと自分の台詞にはずかしそうに笑った君の笑顔は僕の靴の紐を、この噛みしめた唇のように引き結ぶ。
こころが“うっ血”してしまいそうなくらいに、固く、固く。
まだ、僕はこの愛おしい靴を脱ぎ捨てることは出来ない。
その代わりに少しずつ、紐をゆるめ、足を風にさらし、その靴を──小脇に抱えよう。
そして、小石の痛みを感じながら、君のいない明日に向かって歩くんだ。