いわし雲のように【SS集】
 何ということのない、しいていうならば良く晴れたうららかな日のこと。

「……」

 目の前に“つまみ”があった。

“つまみ”といっても酒の“つまみ”の“つまみ”ではなくて、かちりとチャンネル等を切り替えたりする“つまみ”の“つまみ”だ。

 それが目の前にあった。

 正確にいえば付き合い始めて間もなく1年を過ぎようかという彼女のうなじの所。

「……」

 昨日ベッドを共にしたときにはなかったはずだ。

 どういう状況でそれをみて確かめたかはいわないがともかく、昨日までは確かに。

 それをいま、台所に立って鼻唄交りに料理をしている彼女の後ろ姿を何の気なしにみていて気付いたのだ。

(回してみるべきなのだろうか)

 それがある不思議よりもまず先に好奇心が頭をもたげる。

 この平穏な日常に不満など、ない。

 ただ、もしそれを回すことで何かしらの変化が起こるのであれば試してみたい気もする。

「……」

 意を決し、俺は足音を立てないよう細心の注意を払いながら後ろに立ち、そぉ、と手を伸ばした。

 かちり






──50年後。


 私は当時の彼女と所帯を持ち、3人の子供にも恵まれ大変穏やかな日々を送っている。

 あのとき何か変化が起こったわけではなかった。

 いや、もしかすると何か起こったのかもしれなかったが、少なくとも私が認識しうる物事の変化は起きなかった。

 そして今、あの日と同じように私の目の前で料理をしている彼女のうなじに、あのときとまったく同じ形をした“つまみ”があった。

 昨晩ふと何の気なしに思い立って肩もみをしてあげたときには確かになかった。

「……」

 私は湯呑みを手に取り、ゆっくりと茶を口に含む。

 それは喉元を過ぎると胸をじんわりとあたため、窓の外の陽気と交わって私の頬をやさしくゆるませた。

「──なぁ」

 彼女に声をかける。

「んーなぁに?」

 彼女は鍋の様子を見ながら振り返らずに返事をする。

「キミは今、幸せかい?」

「なぁに? やぶからぼうに」

「いや、なんとなく、ね」

 私はテーブルの上の新聞を広げ、再び茶をゆっくりと口に含んだ。
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