いわし雲のように【SS集】
 時計の針を気にする者などおよそいない深夜。

 街灯はおろか月の光さえも届かぬ入り組んだ路地の奥のそのまた奥にそこはあった。

 看板は、ない。

 薄汚れたレンガ造りの壁と同化してしまいそうな格子模様を描いた扉には一箇所、小さな小窓がついていた。

 しかしそこから中の様子を伺い知ることは出来ない。

 同じく小さな引き戸がそこに据えられているからだ。

 と、そこに人目をはばかるようにして一組の男女がやってきた。

 彼らはぎゅっ、と互いの手を握り合うと気持ちを落ち着かせるために数回、深呼吸をした。

 すえたニオイが鼻をついたがむしろそのおかげで意識に鞭が入り、どこか腹のすわった表情になる。

 男が、扉を5回、ノックする。

「どちらさまで?」

 シュッ、カタン、という音を立てて小窓が開き、中から声だけが顔を覗かせる。

 男と女は顔を見合わせると頷き、こういった。

「私たちは山向こうのギュスターヴ」

「今宵はどちらに?」

「西の草原の星々に手紙を届けに」

「然様で御座いましたか。では中へ」

 いわれふたりは互いの背後を確認した後、滑り込むようにして扉から内に入る。

「ムッシュならびにマドモアゼル。こちらを……」

 手渡されたのは二羽のマスカーレイド。

 男へは胸の内の感情を彷彿とさせる漆黒。

 女へは口元よりも尚燃え上がる情熱の深紅。

 案内役を担う男はといえば純白のそれがかけられていた。

「さて、今宵は誰を?」

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