いわし雲のように【SS集】
 案内役の男は淡々と問う。

 そこに卑しさなど皆無だ。

 おおよそ真っ当なことが行われているとは思い難いこの場所にあって、その男の対応はむしろ滑稽でさえある。

 それに比べて問いかけられた当の二人といえば、もはや我慢などという言葉は先ほどの路地の隅に押し込めてきたかのように垂涎を露にしていた。

 漆黒の仮面をつけた男はその奥の瞳をギラつかせながら、

「ヘレンはいるかね?」

 そう答える。

「生憎と他のお客様のお相手をしております」

「そうか……相変わらず人気なのだな」

 少しばかり嘆息を吐くと軽く視線を床に落とした後、男は案内役にこう尋ねた。

「ではベルトーチカは?」

「空いております」

「そうか、では彼女を」

「かしこまりました。マドモアゼルはいかがなさいますか?」

「私は……ハンス・ブレアーノとフェデリーニをお願いできるかしら」

 早くも頬をうっとりと上気させながら女は答えた。

「キミも欲の深い女だな」

「一途なフリをして別な女を求める人にいわれたくないわね」

「ふふ、淋しがり屋なものでね」

 そして今宵も又、世の枷に抗い己が欲望を満たすための宴が始まる。




 時は西暦2XXX年。

 地球温暖化がいよいよもって末期を迎えたために世界ではその本体をほぼ木で作られている“えんぴつ”の使用、その一切を禁じた。

 しかし人々はあの“えんぴつ”のほどの良いしなりとあたたかみを忘れることが出来ず、夜な夜な秘密の集会上に集まり、お気に入りの“硬さ”を暗号で呼び合い注文し、思う存分字を書いて至福の時を貪るのだった。

 そう、つまり──



 ヘレン=H

 ベルトーチカ=B

 ハンス・ブレアーノ=HB

 フェデリーニ=F



──である。





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