いわし雲のように【SS集】
彼女は誰もが羨む存在だ。
ひと息でいえば、
『眉目秀麗才色兼備資産家御令嬢』
である。
しかしながらそんな彼女にも悩みはある。
周囲からすればそのように恵まれた容姿と環境で何を悩むことがあろうかとお思いかもしれないが、いや彼女とて人。
さてその中身をひと息でいうならば、
『チョココロネ』
である。
実に単純な話。
そう、実に単純な話なのだ。
常日頃より食事といえば“コース”しか食したことのない彼女にとってこの“チョココロネ”というものが実に魅力的で仕方がないのである。
とはいえ。
この“チョココロネ”を手に入れること自体は夢物語でもない。
彼女が卓の上に鎮座するギヤマンのベルをひと振りしさえすればものの数分で純銀のトレーに乗って出てくるのだから。
だがそれは彼女の望む“チョココロネ”では、ない。
彼女が真に望むのは出来たてほかほかふんわりもっちり香ばしいそれなどではなく。
あくまでも。
至極庶民的な。
24時間営業の、犬小屋程度の広さしか持ち合わせていない小売店の棚にある“ビニール袋”に入ったそれでなければならないのだ。
いや、いや。
それを手に入れることもまた造作もない話ではある。
それこそ彼女がひとこと、
「じいや」
と、可憐な桜色の唇でそよ風を生めばよいだけのこと。
問題は彼女の周りには常に、地位と権力が空気と同質のものとして存在し、それはまた誰彼の“目”によって監視され、保たれているということ。
ゆえに。
彼女にとってアレは恐怖意外のなにものでもないのだ。
庶民の、庶民による、庶民ゆえの興趣(きょうしゅ)ともいえる、
『かぶりついて食べた勢いでさきっちょからチョコがブニッ、と出るアレ』
もし仮にそのようなことが起ころうものなら、彼女は最早その貴き存在に住まう資格を剥奪されてしまうことだろう。
なんともはや。
眉目秀麗才色兼備資産家御令嬢というのも、なかなかに大変な境遇のようである。
合掌。