白き旋律
「名前。」
「え?」
「名前教えて。」
「えーっと…2年の柏木(かしわぎ)です。すみません…邪魔しちゃって。」
「それは別にいい。でもあなた…どうして泣いてるの?」
「…。」

 悠夜は押し黙った。理由なんて自分でも分からない。だから答えようがない。

「自分が泣いていたこと、気付かなかったの?」
「そんなことは…。」

 少女は不思議そうな顔で悠夜を見つめている。沈黙に耐えかねて、悠夜は意を決して口を開くことにした。

「君の演奏を聴いていたら、なぜか泣けた。理由は…なんか上手く説明できないけど…。」

 ストレートな気持ちをそのままぶつける。せめて不審者ではないということを証明しなくてはと、はやる心を押さえながら。
 彼女はそれを聞いて俯いた。そしてそのまま、何も答えない。さすがにこの空気に耐えられなくなってきた。

「なんか、いきなり来たくせに色々失礼なことばっか言ってごめんなさい。もう、帰ります。それじゃ。」
「ちょっ…ま…待って!」

 制服の裾をぐいっと引かれた。思っていたよりも強くて、悠夜の体が少しだけ傾いだ。

「へ…?」

 思わず素っ頓狂な声が出た。彼女は俺の服の裾を掴んだままだ。

「名前、教えてくれる?」
「さっき名乗りましたけど…。」
「下の名前。」
「悠夜(ゆうや)…です。」
「悠夜ね…。覚えた。」
「はぁ…、あ、じゃあ君の名前は…?」
「あれ?私…名乗ってなかった…?」
「うん。俺に訊いただけだよ。」
「天羽紀紗。(あまばねきさ)1年。」
「1年?なのにあんなに…上手い…?」
「特待生だし私。当たり前。」
「特待生だってよっぽど優秀じゃなきゃあんなには弾けない…。」
「そうなの?まぁ、私、蓮上司(れんじょうつかさ)の妹だから…。」
「れ…んじょう…つかさ…?」

 短い言葉でポンポンとやり取りする中で出てきた唐突な名前。特に勤勉ではない悠夜ですら、その名前は知っている。

「そう。蓮上司は私の兄。」
「蓮上司!?」

 蓮上司と言えば超有名ピアニストだ。8歳から作曲を始め、映画やCMにもその曲がたくさん使われている。記憶が正しければ、15歳で日本のピアノコンクールの賞を総なめしていたはず。そして去年、父親でありピアニストの蓮上匠さんと海外に行った際に、飛行機事故で亡くなった。享年24歳。若い才能が事故で失われたことを、亡くなってすぐのころは盛んに報道されていた。

「司がどうかした?」
「いや…だってあの有名な蓮上司に妹がいたなんて。上手いのも納得っていうか…。」
「司から習っていたら上手くもなるよ。当然でしょう?」

 育った環境が違う。彼女が上手いことにストンと納得する。彼女のピアノの上手さについては恵まれた環境故と判断した。丁度会話が途切れて音がやんだ瞬間、チャイムが鳴った。

「やべっ…俺、午後個人指導だ…。」
「急がないとここからじゃ間に合わないよ?じゃ、またね。悠夜。」
「え…あ…また…?」

 いたずらな笑みを浮かべた紀紗にちょっと翻弄される。そしてそのまま曖昧にそう答えて8番練習室を後にした。個人指導に向かう道すがらも彼女の音色が頭から離れない。あの切なげな音色と彼女の表情がなんだか妙にフラッシュバックする。

「…天羽、紀紗。」

 不思議な少女の名が、悠夜の口から滑り落ちていた。
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