白き旋律

2.噂の麗人

* * *

 紀紗のところに通うようになって1週間。紀紗の言葉通り、あの旋律をまた耳にしたくて、気付けば悠夜の足は8番練習室に向かっていた。

「悠夜弾いてみて。」
「え…?あー…」
「悠夜がピアノ弾いてるの、見たことない。」
「紀紗の後に弾くと…明らかに俺、惨めになる…。」

 実際本当に惨めになるよ多分。と、心の中でそう呟く。
 紀紗は冗談抜きで本当にミスなく演奏する。この1週間、悠夜の前で色々弾いてくれたが、紀紗がミスをしたのを聴いたことがなかった。俺のへたれピアノなんか聴いても…と思うからこそ弾けない。彼女の前でそんな自分を晒すのはどうしても嫌だった。

「別に実力が知りたいとかそういうんじゃない。悠夜はどういう風に弾くのか知りたかっただけ…。」

 ちょっと拗ねた顔をする紀紗。そんな顔されるといつもよりも余計子どもっぽく見えて、なんだか良心が疼く。まるで自分がとても悪いことをしてしまったような罪悪感が少しだけ襲ってくる。

「……仕方ないな…。下手でも怒んなよ。」
「怒らないよ。」

 仕方なく悠夜は覚悟を決めてピアノの前に座った。弾くことの出来る曲は決まっている。今の悠夜が唯一弾ける曲。指はゆっくりとピアノの鍵盤に降り立った。紀紗の視線を感じて、半身に緊張が走る。
 引き終わって鍵盤から手を離した。太ももに悠夜の手が乗ったのを見た紀紗は、おもむろに口を開いた。

「なんで別れの曲?それにミス多すぎ。」
「…反論出来ません…。」

 紀紗が真面目に聴きすぎているからだよ…と言ってやりたくなったが、そこはさすがに我慢した。最近練習して弾けるようになったはずのショパンの『別れの曲』。なのに…それさえも紀紗の前では上手く弾くことが出来ない。

「別れの曲…好きなの?」
「まぁ…どっちかっていうと好き。最近ようやくまともに弾けるようになった曲だし…。まぁこれでもショパンの曲は好きなんだ。」
「ふーん…。ちょっと代わって。」
「え…?あ、おい!」

 椅子を奪って紀紗が弾き始めた。当然だけどミスはもちろんない。だがやはりなぜか紀紗が弾くと切なく聞こえる。紀紗のことだから、楽譜に忠実に弾いているはずなのに…。

「この曲、私が一番最初に誰にも習わずに弾けるようになった曲。」
「習ってない?」
「司に楽譜もらってね。自分で譜面読んで、練習してマスターした曲。いいチョイスだね、悠夜。」

 声のトーンが下がったわけではないのに、また切なげな表情を浮かべる紀紗。そんな彼女を見つめると、言葉に出来ない苦しさに襲われる。自分自身が切ないわけではない。それなのに苦しい。人の切なさを直に感じて苦しくなるなんて初めての経験だった。
 ふと、携帯のバイブ音が鳴る。着信だった。

「もしもし?」
『悠夜、お前どこにいるんだよ?』
「あー…何?どっかに集まってる感じ?」
『いいからお前も来い。今日は集まるっつー約束してただろ?』
「そうだっけ?分かった。」
『あとでな。』

 電話越しの機械音。電話は用件のみかつ一方的で、絶対にこの機械音を聞くのは自分だ。

「…紀紗、ごめん。今日友達とちょっと集まんなきゃなんなくて…。っていうか俺がその約束忘れてて…。」
「うん。分かった。」
「んじゃ。」
「うん。またね。」

 小さく手を振る紀紗を残し、俺は練習室を出た。いつもの場所へ急ぐ。

< 4 / 7 >

この作品をシェア

pagetop