無い物ねだり
先生は頷くと立ち上がり、部屋の隅に置かれた戸棚からプラスチックの袋に入った注射器を取り出した。袋から出すと針を試験管の上ぶたに刺し、液を注入した。
 注射される時、少しドキドキした。確かに昨日より痛みは収まったが、痛いには変わりない。こんな注射一本で本当に痛みが収まるのか信じられなかった。
「急には利かないけど、試合が始まる頃には威力を発揮するから。ただし、くれぐれも無理をしないようにね」
「はい!」
心を見透かしたような先生の言葉に違う意味でドキドキしつつ、注射を打ち終えた。頬のぶつけた部分に塗り薬を塗りカット綿を貼ってもらえば、ナースステーションを出た。ようやく動き出した会計で精算をすませれば、母の車に乗って急いで会場へ向かった。ユニフォームは半袖パーカーとジャージの下にすでに着ているから、自宅へ帰って着替える必要はない。しかし道が込んでいたら困るので、早めに着くよう急いだ。
 窓の外を流れる景色を見つめながら、私は色々考えた。
(今日出場できるのは、たった十分。でも、たった十分でも出られるなら全力を尽くそう。それが無理なお願いを聞いてくれた先生や心配してくれた仲間への恩返しだから)
気持ちはとても前向きだった。今日の試合、必ず勝てる気さえした。T代付属などチョロイ気がした。
 だから、ネガティブにならないよう、片平の事は考えないようにした。もし昨日の事を少しでも思い出せば、急いで振り払った。
 時、同じ頃。新山は学校のグラウンド側にある水飲み場の前で、大橋や田口、泉など、いつも昼休みにサッカーをして遊ぶメンバーと対峙していた。楽しげな雰囲気は微塵もない。張りつめた空気だけが流れていた。
 特に新山は緊張した面持ちでいて、ふだんの陽気さはまったく感じられなかった。
「で、新山。話って何?お前は部活休みみたいだけど、俺達は今日もあるんだよね。あと二十分したら始まるから、早く終わらせてくれよな」
「ああ、そのつもりだ。俺にも大事な用事がある」







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