ざわめきのワルツ
「蓋、開けてくるわ」
二十三時を回る頃になると、可南子さんは小さな鍵を取り出す。
バーの隅にある、小さなグランドピアノの鍵だ。
彼女は毎日それを開けるくせに、なぜか弾いている姿は見たことがない。
それでも必ず、蓋を開けてきちんとした形―今すぐにでも演奏できるような―にしておくのだ。
「亜衣子(あいこ)、俺そろそろ帰るな。酒飲むんじゃないぞ」
そしてその頃になると、木曜日だけの常連客である奥村(おくむら)さんが帰っていく。
毎回毎回、「酒飲むんじゃないぞ」と念を押して。
奥村さんは、かつて私の先生だった人だ。
その細い身体のどこから出るのか、と思われるような重厚な声のテノール歌手。
だから彼は喉のためにお酒を飲まないのに、毎週ちゃんとここにやって来るのは、私がいつまでもこうして腐っているせいかもしれない。
それでも彼は、彼のかつての秘蔵っ子が戻ってくるのを信じ、「酒を飲むな」と忠告をして帰る。
「ありがとうございました」
「またいらしてくださいね」
赤い唇でくっきりと、可南子さんは笑った。
二十三時を回る頃になると、可南子さんは小さな鍵を取り出す。
バーの隅にある、小さなグランドピアノの鍵だ。
彼女は毎日それを開けるくせに、なぜか弾いている姿は見たことがない。
それでも必ず、蓋を開けてきちんとした形―今すぐにでも演奏できるような―にしておくのだ。
「亜衣子(あいこ)、俺そろそろ帰るな。酒飲むんじゃないぞ」
そしてその頃になると、木曜日だけの常連客である奥村(おくむら)さんが帰っていく。
毎回毎回、「酒飲むんじゃないぞ」と念を押して。
奥村さんは、かつて私の先生だった人だ。
その細い身体のどこから出るのか、と思われるような重厚な声のテノール歌手。
だから彼は喉のためにお酒を飲まないのに、毎週ちゃんとここにやって来るのは、私がいつまでもこうして腐っているせいかもしれない。
それでも彼は、彼のかつての秘蔵っ子が戻ってくるのを信じ、「酒を飲むな」と忠告をして帰る。
「ありがとうございました」
「またいらしてくださいね」
赤い唇でくっきりと、可南子さんは笑った。