馬上の姫君
プロローグ
天地人 三の次第を 知るならば
上を敬い 下をあはれめ
武備百人歌合せで詠んだ佐々木定頼で
ある。
しかし、人質であった今井の幼児を無
残にも処刑してしまったことを後悔し、
後世の良くないことを覚悟して、天文二
十一年正月二日に臨終の床についた。
将軍家の強力な庇護者定頼が死ぬと、
暗殺を恐れた細川晴元は心月一清と号し
て一旦は若狭に逃れたが、やがて香西元
成や三好政勝などを糾合して陣営を立て
直し、頻繁に洛外に出没してゲリラ戦を
展開するようになり、佐々木義賢に出兵
を要請するまでに回復した。
義賢が定頼の遺訓に背いてまでも晴元
に与力することにしたのは、浅井に勝利
した直後のことであり、芥川孫十郎が晴
元に同心、八上城の波多野備前守らと連
合して、八木城の内藤貞正を亀岡に破っ
たからである。晴元が蜂起すると、長慶
も八月一日早朝、河内、和泉、大和、摂
津、紀伊の二万五千を率いて上洛、両軍
は対峙した。辰己の刻(午前九時)、将
軍義藤、晴元連合軍は、霊山城を出て船
岡山に布陣する。この時、高屋城の河内
守護畠山高政と遊佐長教暗殺後守護代に
なった安見直政、それに遊佐長教の遺児
信教は長慶に従わず、船岡山の足利義藤
の陣営に馳せ参じた。