馬上の姫君
足利義昭が鞆津から帰洛出来たのは天正十五年になってからである。この年の三月一日、島津討伐のため大坂城を出陣した秀吉を、備後赤坂に出迎えて恭順の意を示すことでようやく許された。
将軍後見役を勤めて佐々木義堯を名乗った承禎の長男義治は、義昭が帰洛を許された年、真木島昭光ら側近とともに帰京した。義治は出家して法号を鴎菴玄雄とし秀吉に帰服、お伽衆の一員に加えられた。秀吉が小田原北条氏包囲の陣中に津田宗及などを招いて開いた天正十八年(一五九〇)五月の茶会や慶長十二年(一六〇七)五月、相国寺の作事を検分にきた片桐主膳正貞隆を寺側が接待した茶会に相伴衆として参加している。
義昭や義治を頼りにして鞆津に滞在していた北畠具親の遺児鞆麿は、彼らと一緒に帰京することが出来なかった。
母代わりになってずっと面倒を見てくれた久野姫が病に伏していたからである。久野姫はむろの木に敬慕する五郎信景の武運長久を祈ったが果たせなかった。悲報を受けた頃から体調を壊し、胸の病は悪化して、すでに動かすことが出来ないほどの容態であった。
将軍後見役を勤めて佐々木義堯を名乗った承禎の長男義治は、義昭が帰洛を許された年、真木島昭光ら側近とともに帰京した。義治は出家して法号を鴎菴玄雄とし秀吉に帰服、お伽衆の一員に加えられた。秀吉が小田原北条氏包囲の陣中に津田宗及などを招いて開いた天正十八年(一五九〇)五月の茶会や慶長十二年(一六〇七)五月、相国寺の作事を検分にきた片桐主膳正貞隆を寺側が接待した茶会に相伴衆として参加している。
義昭や義治を頼りにして鞆津に滞在していた北畠具親の遺児鞆麿は、彼らと一緒に帰京することが出来なかった。
母代わりになってずっと面倒を見てくれた久野姫が病に伏していたからである。久野姫はむろの木に敬慕する五郎信景の武運長久を祈ったが果たせなかった。悲報を受けた頃から体調を壊し、胸の病は悪化して、すでに動かすことが出来ないほどの容態であった。