馬上の姫君
天文十五年、松姫は懐妊する。産み月が厳寒の頃であったため、山間の霧山城よりも温暖な波多の横山の御台屋敷で出産することにした。女佐の臣・佐々木与志摩も御台屋敷に従う。北畠正室となって多気のお方様と呼ばれるようになった松姫は、出産が近づくと、生まれ来る子の無事を御台屋敷近くの波瀬川の大岩に祈っている。
天文十六年正月晦日、多気のお方様は難産の末、男子を出産した。翌日、大湊の奉行で北畠筆頭家老鳥屋尾石見守が御台屋敷を訪ね、大湊の会合衆が奉じた祝儀の百度御祓太麻を多気のお方様に披露する。しかし、生まれたのは水ぶくれのようにぶよぶよ肥満した、なかなか首の据わらぬ病弱な子であった。
その年の六月、安芸郡美里村桂畑に拠る長野源次郎藤定が南伊勢の支配権をめぐって北畠と対立した。そのため、晴具、具教父子は一志の前線基地、小山城、八太城等に兵を進めて臨戦態勢を敷く。
この戦いのため、片野村に住む羽林の母堂と侍女たちが一時、御台屋敷に退避した。
与志摩とともに女佐の臣として信北畠に入った山路弾正胤常は、北伊勢の情勢を掌握する命を受け、目付けとなって神戸家の高岡の城に入った。長野藤定は家所の城に分部与三左衛門光恒を入れ戦線を強化する。対する晴具(天祐)は宇陀の沢源五郎や秋山宗丹入道などを使嗾して長期戦に備えた。
天文十六年正月晦日、多気のお方様は難産の末、男子を出産した。翌日、大湊の奉行で北畠筆頭家老鳥屋尾石見守が御台屋敷を訪ね、大湊の会合衆が奉じた祝儀の百度御祓太麻を多気のお方様に披露する。しかし、生まれたのは水ぶくれのようにぶよぶよ肥満した、なかなか首の据わらぬ病弱な子であった。
その年の六月、安芸郡美里村桂畑に拠る長野源次郎藤定が南伊勢の支配権をめぐって北畠と対立した。そのため、晴具、具教父子は一志の前線基地、小山城、八太城等に兵を進めて臨戦態勢を敷く。
この戦いのため、片野村に住む羽林の母堂と侍女たちが一時、御台屋敷に退避した。
与志摩とともに女佐の臣として信北畠に入った山路弾正胤常は、北伊勢の情勢を掌握する命を受け、目付けとなって神戸家の高岡の城に入った。長野藤定は家所の城に分部与三左衛門光恒を入れ戦線を強化する。対する晴具(天祐)は宇陀の沢源五郎や秋山宗丹入道などを使嗾して長期戦に備えた。