馬上の姫君
天文二十二年、北畠国永は、七夕に因んで、

 織女の そでのしがらみ ふせおきて 又あすよりや こゑむあだ波 

など七首を詠んだ。その月の二十六日、晴具(具国)は体調を崩し、平癒祈願のため伊勢神宮に参詣、家督を具教に譲る。
長野氏との抗争は相変わらず続けられ、与志摩や国永は新しく国司になった北畠具教に従い、度々、葉野の戦場に赴いた。しかし、弘治年間になると、家城(いえき)城を預かる家城主水正、小山城主大多和兵部少輔、八太城主田上讃岐守らの働きで国司家の勢力が伸張してようやく終息の兆しが見え、永禄元年、長野藤定は遂に国司家へ和議を申し込む。結果、具教の次男具藤(二歳)が長野へ養子に入る条件で十数年にわたる伊勢中部の支配権を巡る抗争は終結をみた。
 波多の横山の御台屋敷周辺も平和が戻った。

 永禄二年秋、与志摩が丹精込めて育てた白菊を多気のお方松姫が詠む。

 ながむれば さきみだれつゝ 色々の 秋の名残を のこすしら菊

 それを受けて、御台屋敷にお方様のご機嫌伺いに訪れていた国永が返す。

 ことの葉の うらめずらしき 色そへて いく千とせか しら菊の花













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