馬上の姫君
 国永の返歌をゆったりと吟じた松の方がしみじみと言った。
「いく千歳か。のう、国永殿、わが子、竹松(後に信雄の傀儡になった国司具房)も十三になり元服が近いと言うに、ご存知のように成長がおぼつかず、総身に知恵が回らぬばかりか、一丁も歩けば息切れがする有様。あれでは国司家を継いでも、先行きがなんとも覚束ない。殿も御家を背負う器でないことを承知の上で、六角との盟約を慮(おもんばか)り、しぶしぶながらも家督を継がせる御積りのようじゃが、家臣の中には、大飯食らいの太肥御所とあからさまに揶揄する者もいる。国永殿、どうか竹松を良しなに願いますぞえ」
「…竹松君はああ見えて、心根の真っ直ぐな穏やかなお方。今にきっと殿様、御台様のお心に叶うよう健やかにご成長なさるに違いありませぬ。まだ、十歳とちょっとの御年、大器は晩成すと申すではありませぬか。切磋琢磨なさるのはこれからにござりますぞ。国永、竹松君のお役に立つことであれば、わが命に代えてお仕え申し上げる覚悟にござります」
 正室お松の方はこの頃から、侍女浜野とお倉を従えて、波多の横山の御台屋敷に住まうようになっていた。御台屋敷の生活全般は、お付きした女佐の臣佐々木与志摩が切り盛りしている。
 そのため、正室の居ない霧山の城では、側室お鈴の方(具藤生母)が誰よりも具教に寵愛されることとなった。
 翌、永禄三年七月九日、弘治年間の長野との交戦で重傷を負い、長きに渡って病床にあった国永の長男具永が死んだ。
『転変の世のならいとは思いながらも、親の心の闇いと晴れがたく、五七日の営みを』
と詞書して国永が詠んだ。

松風も うき世のちりハ 払ハじな 月のミやどる こけのむしろに
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