馬上の姫君
 信長が甲賀の土豪にたいして、足利義昭を擁して上洛するので、忠節を尽くすように要請したのは永禄十一年八月二日のことであった。七日には佐和山城に出向き、佐久間信盛、丹羽五郎左衛門などを遣わして観音寺城の承禎(義賢)に服属するように求めた。義賢は定頼の七回忌を迎えた永禄元年に仏門に帰依し、抜関斎承禎を号している。信長は七日間、佐和山に滞在、従えば京都所司代にすると説得させたが、承禎は織田の軍門に下らなかった。そのため、義昭は平和裡に近江を通過することが不可能になり、九月七日、信長は尾張、美濃、北伊勢、徳川家康の援軍など合わせて四万の軍勢を率いて岐阜を発った。
 十一日、愛知川東岸に野陣、翌十二日、佐久間信盛、木下藤吉郎、丹羽長秀らに箕作城を攻撃させ、これを陥れた。
 当時の佐々木六角の内情は、承禎の子義治が家老後藤但馬守を謀殺した永禄六年の観音寺騒動以後、家臣団は二分し、そこを信長に調略されたため、譜代の家臣であった後藤、進藤、池田、永田、九里、蒲生らは、すでに織田の軍門に降っていた。その上、信長は大軍でもって一城を包囲させ、一城ずつ撃破していく戦法を取った。六角の支城和田山と箕作城を封鎖して、鉄砲七百挺を用い、雨あられと銃弾を観音寺本城に撃ち込んだ。
「甲賀に退避する」
 下知した承禎は深夜、甲賀、伊賀の随兵たちに守らせて観音寺城を脱出、甲賀に落ちた。城落ちの際、お茶子谷や薬師見附から脱出した女中衆五十余名が桑実寺側から攻め上ってきた織田の雑兵どもの蹂躪を受け、救いようのない地獄絵図が展開された。女中衆の多くは自らの意志で死を選んだ。上洛後の信長は軍律を厳しくして京都の治安にあたったが、戦場における乱暴狼藉は許していた。
 お茶子谷から城落ちするはずであった義治の正室三好の方と承禎の継室土岐の御方はこの日から消息不明になった。
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