馬上の姫君
具房は多気御所と呼ばれてはいたが、愚鈍で肥満の彼を人は大肥御所、大腹御所と軽んじていた。それに比べ具教は、以前、剣聖塚原土佐守卜伝が一志多気の里に足を留めて北畠一門に剣の道を教えた時、自ら川上八幡宮の滝に身を清めて剣技を極め、『一の太刀』の秘伝を授けられた。
その後、上泉信綱が霧山城を訪れ、具教と手合わせしてみたが勝敗は決しなかった。そこで信綱も具教に新陰流の極意を伝授した。同時に信綱は柳生但馬守宗厳(石舟斎)を紹介し、具教と試合をさせてみたが、その手合わせで具教は石舟斎を破ったと言われる。
具教が剣道三昧に耽るある日、塚原卜伝の養子彦四郎が霧山城を訪れて具教に願い出た。
「私が父より授けられた一の太刀と、御所様の一の太刀を比較致したく参上しました。是非ともご披露下さりませ」
塚原卜伝は、一子相伝の『秘伝一の太刀』を養子には相続させなかった。それに不満を持った彦四郎は嘘を言い、形を披露させることでそれを盗もうとしたのだ。しかし、具教は快く応じて一の太刀を披露して見せた。結果、彦四郎は無事に『秘伝』を習得することが出来たという。
「具教殿は愛も変わらず一の太刀に執心のご様子、元気なのは良いが、義輝(義藤)様の二の舞をされても困る。一の太刀を伝授された公方様は、生前、剣豪将軍の名をほしいままになされたが、古来の武道に目を塞がれたため、鉄砲への取り組みを疎かになされてしもうた。ワシは信長に数多の鉄砲を撃ちかけられて城を追われたゆえ、合戦には火縄が欠かせぬと骨身に沁みて解った。……ところで、なぜに木造は寝返った」
承禎が与志摩に尋ねた。
「昨年の多気の春祭の折りに、木造家は、例年の定法を破って、兄の大御所様より、田丸、大河内、坂内の三御所の後ろに馬を並べるよう下知されてすっかり面目を失い、深く国司家を恨んでいたとのことでござります。日頃からの兄弟仲の悪さを、信長に突かれ、調略されたのでござりましょう」
その後、上泉信綱が霧山城を訪れ、具教と手合わせしてみたが勝敗は決しなかった。そこで信綱も具教に新陰流の極意を伝授した。同時に信綱は柳生但馬守宗厳(石舟斎)を紹介し、具教と試合をさせてみたが、その手合わせで具教は石舟斎を破ったと言われる。
具教が剣道三昧に耽るある日、塚原卜伝の養子彦四郎が霧山城を訪れて具教に願い出た。
「私が父より授けられた一の太刀と、御所様の一の太刀を比較致したく参上しました。是非ともご披露下さりませ」
塚原卜伝は、一子相伝の『秘伝一の太刀』を養子には相続させなかった。それに不満を持った彦四郎は嘘を言い、形を披露させることでそれを盗もうとしたのだ。しかし、具教は快く応じて一の太刀を披露して見せた。結果、彦四郎は無事に『秘伝』を習得することが出来たという。
「具教殿は愛も変わらず一の太刀に執心のご様子、元気なのは良いが、義輝(義藤)様の二の舞をされても困る。一の太刀を伝授された公方様は、生前、剣豪将軍の名をほしいままになされたが、古来の武道に目を塞がれたため、鉄砲への取り組みを疎かになされてしもうた。ワシは信長に数多の鉄砲を撃ちかけられて城を追われたゆえ、合戦には火縄が欠かせぬと骨身に沁みて解った。……ところで、なぜに木造は寝返った」
承禎が与志摩に尋ねた。
「昨年の多気の春祭の折りに、木造家は、例年の定法を破って、兄の大御所様より、田丸、大河内、坂内の三御所の後ろに馬を並べるよう下知されてすっかり面目を失い、深く国司家を恨んでいたとのことでござります。日頃からの兄弟仲の悪さを、信長に突かれ、調略されたのでござりましょう」