馬上の姫君
第六章 囚われた正室
 信長が伊勢の国司北畠具教を攻略するため、三河、遠江、尾張、美濃、近江、北伊勢の五万を超える大軍を率いて岐阜を発進したのは、与志摩が伊賀から帰って二ヶ月余り後の八月二十日のことだ。
 二十六日、木造の二人の家老柘植三郎左衛門、源浄院(滝川三郎兵衛尉雄利)らが北畠攻めの先兵となって南進、滝川一益(多喜久助)が随所に放火、光隆寺、善応寺などが悉く灰塵に帰した。
同日、先鋒の木下藤吉郎が三千の精鋭を率いて阿坂城の攻撃を開始する。
迎え撃つ北畠勢は、ここ二ヵ月にわたる同族木造や関、長野らとの血みどろな抗争の果てに迎えた織田の攻撃であったから、疲労困憊の極みにあり精彩を欠いていた。

信長は馬廻り衆を引きつれて、雨あがりの嬉野平野を疾駆する。
「まず阿坂の城を落とせ」
 敵情視察の後、下知、戦闘の采配を藤吉郎に委ね、自身は雲出川北岸に引き下がった。
阿坂城は白米城として著名である。これは、南北朝の昔、国司三代の満雅が足利の大軍五万を迎えて戦った時、兵糧攻めに遭い、水を止められて苦しんだが、馬の背に白米を流して水があるように見せかけて欺き、退却させた故事による。
城は標高三町弱(三百十㍍)の枡形山の頂上にあり、天然の要害で、背後には重畳たる堀坂山系が吉野や紀州まで続き、谷間では北畠に仕える武士が半農半士となって山林を育て、田畑を耕していた。信長が藤吉郎に采配を委ね、雲出川北畔に宿営したのも、この山野からのゲリラ蜂起を懸念したためである。
山中にはいく筋もの道が走り矢頭峠や波瀬越えに霧山城、大河内城、坂内城、三瀬谷城などへ連結していた。
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