馬上の姫君
北畠勢は信長南進の道筋にあたる七つの城に兵力を分散して籠城、織田勢を牽制する作戦を取った。
七城とは、今徳山城(安濃郡・城将奥山常陸介)、小森上野城(一志郡・城将藤方入道慶由)、八田城(一志郡・大多和兵部少輔)、曾原城(一志郡・天花寺小次郎広高)、岩内城(飯高郡・岩内主膳正光安)、船江城(飯高郡・本田小次郎親康、後見本田右衛門尉)、そして、藤吉郎秀吉の取り掛かった阿坂城である。
 阿坂城代は北畠四家老の一人、大宮入道含忍斎、城将は武蔵守、伯耆守、大之丞らの大宮一族、籠城の侍大将は本居惣助、田畑金太夫、沼田伊予守、末松右衛門左、梶尾主馬、寄金三郎兵衛、金児義正、二十郎、義則、佐波七郎兵衛、渡辺丹波などの一志周辺の侍である。
 与志摩も小原の北畠国永と御台屋敷から駒返りの道を馬跳ばして阿坂支援に駆けつけた。国永の子息具就は庸安院殿の息がかかりすでに木造方の武将になっていて家を二分している。
 与志摩が城に入ると時を同じくして、霧山の城から横山左馬助、秋田七郎次郎、斉藤小次郎、矢川下総守ら三百騎が矢頭越しに来援した。
「父祖伝来の山林田畑を尾張者に略奪される訳にはいかぬ」
 北畠に仕える者は半農の者が多く、殆どが山林業を営んでいる。
「天下に名の轟く白米の城を落とすわけには参らぬ」
 地史に詳しい本居惣助が檄を飛ばす。眼下には藤吉郎の指揮する三千の軍勢が小さく点在していた。右往左往している木下勢は阿坂城を前にして、手を拱(こまぬ)いているように見える。
 まもなく夕闇に閉ざされようとした薄暮の時刻、城の麓まで近寄った織田の騎馬武者が矢文を打ち込んだ。
『小城ながら天晴れな戦いぶりである。この城一つ落とすぐらい容易(たやす)いことであるが、あたら多数の勇士を死なせることは忍びない。弾正忠目指すは大河内の城のみである。ここは休戦にいたすが筋目ではないか』
 これを見た籠城の兵士は、すぐに返事の矢文を打ち返す。
『北畠は武門の名家。弓矢に誓って命ある限り戦うであろう。命惜しくば雲出川の向こう岸へ引き下がれ』
 翌早朝、知らせを受けた信長は矢文に激怒した。
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