馬上の姫君
 阿坂を脱出した与志摩は目付本居惣助や北畠国永、金児二十郎ら数人と山間の道を通って波瀬に抜け、波多の横山の御台屋敷に立ち寄った。正室松姫を救出して、霧山の城へ非難させなければならない。御台屋敷へ駆け込み、阿坂落城の急報を知らせようと松姫を探したが見当たらない。侍女浜野に聞くとお倉をつれて波瀬川の川辺に花を摘みに出られたという。
松姫の御台屋敷での日課は、合戦に死んだ多くの北畠家臣の霊に読経し、弔うことであった。この時期、松姫は大岩の辺りの川べりで、侍女と仏前に生ける曼珠沙華を摘む。
与志摩は捜しに出た。波多の横山を後(うし)ろにして鳥沖の田んぼが広がり、黄金の稲穂を垂れていた。波瀬川の清流が川床の大岩を洗って滔滔と音を立て、両岸には燃え立つように曼珠沙華の一群が咲き誇っている。前方の河畔に華を摘む松姫の姿があった。
「御台様、阿坂城が織田の手中に陥りました。生き残った城兵は皆、大河内城、霧山城へ退散致しております、織田の手勢は間もなくこの御台屋敷にもやってまいりましよう。とり急ぎ、殿のもとへお帰りくださりませ」
「与志摩、慌てずともよい。わたくしは大河内城にも霧山の城にも戻りとうはない。日頃から申している通り、松姫の死に場所はこの波多の横山の御台屋敷と決めている。織田の軍勢が来るならば来たでよいではないか。松姫の終生の住処はこの屋敷じゃ。もしもの時は、ここで潔く果てれば良いと覚悟も出来ている。それまで、心静かに、戦いに死した北畠家臣の霊を弔わせてはくれぬか」
「…しかし、ご正室であり、現国司の御母堂であらせられる御台様の御静動は、ご当家の戦局に多大なる影響を与えまするぞ…」
< 68 / 106 >

この作品をシェア

pagetop