馬上の姫君
 再び視界が開けて櫛田川の流れが目に入ったとき、そこに逃亡する騎馬の一団は無かった。
川上に視線を移すと、終生忘れえぬ光景が目に映じた。
 我が鎧を着た騎馬武者がただ一騎猛然と走り来て、櫛田川に馬もろとも身を投じたのである。
 追っ手の一団は河岸まで近づいたが、ただ馬を連ねて、流れに沈み行く人馬を呆然と見つめているだけであった。具親は大泣きに泣くと、妻が飛び込んだ方向に思わず手を合わせて頭を垂れた。
 この日(天正十一年正月二日)、安保直親、直親室、鳥屋尾義信らが討ち死にしている。松姫、波野姫二代にわたり女佐の臣を勤めた与志摩も御台屋敷に帰ることはなかった。
 
 妻に命を助けられた具親は、蒲生氏郷が小倭城を攻めた翌天正十二年八月十四日、小倭百人衆と氏郷との間に立って和平を進め、小倭勢は無血開城して氏郷に服属、具親の調停は成功した。
 秀吉は具親の働きを評価して多気郡有爾村に千石を与えると称して身柄を蒲生氏郷に預けた。
 
 妻を身代わりにして生き残った具親は、戦いの世に武士(もののふ)の心を持って生き長らえる気概を喪失していた。
 北畠氏はもとが村上天皇から出た公家であったから、具親は武士を捨て、公卿に戻りたい旨を秀吉に願い出た。
しかし、具親の世襲的思考と名族意識が、庶民階層から台頭し、兵農分離を進める秀吉を逆撫でした。
 残忍な秀吉は具親の願いを聞き入れる振りをして、幽閉同然の具親を松ヶ島城において戸賀十兵衛に謀殺させた。
 戸賀十兵衛とは蒲生氏郷の姉の子で、本能寺の変時には明智に加担した後藤喜三郎のことである。明智が滅亡した段階で蒲生家に身を寄せたが、秀吉を恐れて戸賀と改姓していた。秀吉に憚って罪科ある身と謙ったのである。
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