紅き天

避難




家に入ると出迎えてくれる母様はいなかった。



それは当たり前だ、さっき自分が埋めてきたのだから。



それでもあの疾風と抱き合っていた甘い時間、夢であって欲しいと心で願っていた。



「ただいま、父様、母様。」



呼び掛けても誰も来ない。



静乃は悲しく笑って中に上がった。



涙が一粒、二粒零れ落ちる。



ほんの少し前まで基子が使っていた眼鏡や、着物。



見つける度、心が沈んでいく。



でも今は泣いている時間はない。



静乃は汚れた体を洗い、余所行きの着物に着替え、伝蔵の右腕だった重役の家に向かった。



しばらく歩き、通りを左に曲がったところにある立派な屋敷が重役、妙(タエ)の家だ。



基子の従姉にあたり、女だてらに活躍していた人だ。



「妙さん、静乃です。」



玄関から声をかけると静かな足音が近づいてきた。



やがて、足音の主の妙が現れた。



黒に菊の絵が書いてある着物を着ていて、静乃が伝蔵と基子の不幸で来るのがわかっていたようだ。



< 238 / 306 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop