pp―the piano players―
 月を見上げるのをやめた。バラを持つ手に、力を入れすぎていたようだ。すこし曲がってしまっている。

 肌寒さを覚えて立ち上がった。庭にすぐ出られる、勝手口の鍵を開ける。表の玄関は外からの鍵が掛かりづらくなってしまって、内から施錠することにしたのだ。鍵だけの修理が難しく、ドアをまるごと替えなければいけない。加瀬さんが提案したけれど先生がためらっている。
 靴を脱いで家に上がる。先生のキッチンを通り抜けて、リビングの明かりをつけた。そこにある猫脚のピアノが優しく光った。

「ただいま」
 声に出す。もちろん、返事はない。

 時計を気にしながら、ポットでお湯を沸かす。カップと茶葉を食器棚から取り出した。


 先生が腹を押さえて倒れたとき、救急車を呼んだのは絵美子ちゃんとあの人だった。絵美子ちゃんのレッスンの時間だったのだ。
 加瀬さんに連絡をもらって慌てて病院に駆けつけると、すでに腫瘍の摘出手術は始まっていて、加瀬さんと絵美子ちゃん、そしてあの人――先生のお父さんの妹で、絵美子ちゃんのお祖母さん――が待合室にいた。

「早紀ちゃん」
 わたしを見つけて、絵美子ちゃんが駆け寄ってきた。目を真っ赤に泣き腫らして。あの人も不安そうな表情をしている。加瀬さんは腕を組んで、頭を下げ、目を瞑っていた。眠っているわけではない。ずっと細かく足が揺れている。
「絵美ちゃん」
「先生、大丈夫だよね?」
 それは、わたしだって誰かに聞きたい。そして、「大丈夫だよ」って言ってほしい。

 先生は、先生のお父さんと同じ病になった。先生のお父さんは、先生のお母さんと同じ病で亡くなったと聞いた。
 先生が。先生の命が。

 身体が震えている。絵美子ちゃんが、わたしの背中に両手を回し、ぎゅっと上着の裾を掴んだ。わたしも絵美子ちゃんの背中を抱き寄せる。


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