忘れ去られたもの
序章
 彼は、紛れも無く錯乱していた。
 もしかしたら、何処かで煮え湯を飲まされたのかも知れない。
 けれど、出て行った後ろ姿が、今にも追い掛けて来て! と叫ばんばかりだったので、わたしは後を追う事にした。正直に言って、迷った。唐突だったし。けれど、駄目だったの。

 あ……、バッグも持って行った方が良いよね? 玄関を出ようとした所で思い返し、愛用のピンク掛かったそれを肩に掛けてアパートを出たら、不意に冷たい風が頬を伝い、当たり前の事実に気付いて、寂しくなる。

 もはや、晩秋。
 キョロキョロと、玄関先の手摺から周りを見渡してみると、目の見える範囲に彼は居ないみたい。けれど、……きっとあそこに違いない、わたしは、非常階段から敷地内を抜け、国道沿いのアパートを早足で離れる。

 時刻は九時。
 まだまだ眠る事が無い街を、少しだけ肩を張って過ぎ去る。白い厚めのカーディガンを羽織っていたのだけれど、指先が急激に冷え込んできて、初めてこの大きすぎるカーディガンに感謝した。

 夜特有の喧騒。
 人々の笑い声が聞こえる。見ると、ファミリーレストランから出てくる同世代の連中。動きを止めないパンプスの下からは、くしゅっ、くしゅっ、と聞こえる。街路樹の紅葉は一様に散っていて、多分最後の悪あがき。可愛いと思ったのだけれど、彼を探すのが先決、わたしは大地を蹴って、彼の居場所を探すの。

 すたすたと、更に歩いて五分強。近所にある飲み屋街の一角、彼がよく通っているバーに辿り着く。看板には、アゲイン、と云う店名が筆記体で書かれてあって、「再会」の響きを胸に残した。わたしは、引き戸の扉を開き、お酒が並ぶカウンター越しのコレクションを目に宿しながら、店に入る。
 響くのは、扉に取り付けられた、古びた鈴の音。
 染みるのは、夕暮れが瞬時に帰ってきたような、白熱灯の優しい光。

 縦に長い、八畳ばかりの小さなバー。左の奥からわたしが今居る入り口付近に沿ってカウンターがあり、等間隔に八つの椅子、眼前にはスーツを着た白髪(はくはつ)の紳士が座っており、そして、その一番隅に彼は居た。

「あ、ほらっ陵市(りょういち)。有紗(ありさ)ちゃんが迎えに来てくれたぞ」
 マスターが気付いてくれたらしく、彼に向かってカウンター越しに声を掛ける。
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