忘れ去られたもの
「ん? ……ああ、まあ有紗ちゃんも座って。ご飯食べてないんでしょ? 食べてきなよ」

 陵市に何かを言われ、マスターは続けざまに笑顔で言った。
 わたしも、笑顔を返しながらそっと頷くと、歩いていって彼の隣に座る。固定された丸椅子は、見た目よりもずっと座り心地が良くて、実はお気に入り。

「何か飲むでしょ? ジントニック? それとも、ノンアルがいいかな?」

 ぼうっとしていたみたいで、「有紗ちゃん?」と心配そうな顔を覗かせるマスターに、わたしは少し悩んだあと「……じゃあ、ジントニックで……」とだけ呟く。
 了解、と放つマスターに笑みを投げかけ、そのまま隣で塞ぎ込んでいる陵市を見やった。

「……陵市? 大丈夫?」

 余りに泣きそうな顔をしているので、わたしにはそれしか言えない。

「……いや、ほんとごめん。ちょっと嫌な事があって……」

 陵市もそれだけを言うと、持っていたロックグラスの中身を、きゅっと飲み干した。ウイスキーのボトルが、陵市の眼前に置いてある。ラベルには、シーバスリーガル、と書いてある。
 わたしは、陵市がキープしている十二年と冠されたボトルを両手で持ち、「ゆっくり飲みな、ね?」と言いながら、グラスに注(そそ)いであげる。ロックグラス用に削られた丸氷の御陰で、シングル分でも、丁度コップの半分。丸氷が、微かに縮んで、黄金色と混じり合う。

「うん。ありがとう」

 陵市は、脆弱な笑みと共に氷を指で転がし、今度は少量口に含む。それを見て、少しは落ち着いたかな? わたしは思った。心が安定していないと、陵市はお酒を飲み過ぎてしまうのだ。

「はい。ジントニ。食べ物は決まった? 陵市も、空っ酒は体に毒だぞ。飲むんだったら、食わなきゃ! って俺も言えた義理じゃないんだけど、ふふふ」

 笑いながらビールを傾けるマスター。オールバックの髪型は、初めてわたし達が来た時から何も変わる事がなく、ただ、伸ばしている髭が、本来の愛嬌に混ざり合って、森のくまさんのようにも見えた。
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