インテリと春
握り締めていただけのビニール傘を急にあたしの手のひらから横取りして、何の許可もなく開いてしまったその講師。
何をしてくれてんだ。あたしはまだこの雨の中を一人で帰るという踏ん切りがついてない。だからと言って「自分は雨が怖いのだ」と馬鹿正直に抜かせば、笑われるに決まっている。
「でもそれが生きるって事なんじゃねーの?」
取り囲む周囲の音がぴたりと止み、真っ白な世界の中でその男だけが目に映る。そんな感覚に五感を囚われたのも束の間。
「なーんて、偉そうにな…俺が学生の頃にある人から言われた科白」
言いながら、次いで何をするかと思えばスーツのポケットより黒の油性ペンを取り出す安田。そして「フルネームはなんての?」と訊ねられたことに対し、素直に中川マユコと答えたあたしのビニール傘へ“私の名前はナカガワマユコです”などと豪快に書き殴りやがったのだ。
止める暇も無かった自分が、情けない姿へと様変わりしてしまった傘を眺めて思うこと。ぶん殴ってやる。覚悟しやがれ。
「んじゃごきげんよう」
「待てコラふざけんな。弁償して返せ」
「そんなもんどうせ百均で買ったんだろ?幼稚園児でもお小遣いで買えるって。それに、お前帰るんじゃなかったのか?」
油性ペンを宙に投げてはキャッチ、宙に投げてはキャッチの繰り返しをしながら、そう言ってのける野郎の顔付き。どう見ても「こんな傘では帰れるもんも帰れないだろう?」としてやったりな表情である。
しかし、この雨に怯えていた捻くれ者のあたしとしては、本当に底無しの沼から助けられたような気分だった。