上海ふたりぐらし
上海までの道のり
2005年8月、十年来の夢を果たすために、私は5歳の息子を連れて上海を訪れた。
夢とは、留学である。
もともとは広東語を習っていたのだが、香港へ行ってCDを買ってくるたび、中国の標準語である普通話(プゥトンファ)の曲も入っていたため、次第に普通話にも興味をもつようになり、広東語と平行して勉強するようになった。
その後、結婚や出産で何度か中断したが、なぜか普通話の方だけは途切れ途切れながらも、勉強を続けていた。いつか香港か大陸で、勉強できる機会が訪れることを願っていた。
子育てに追われていた2003年のお正月。兄が中国に派遣されるという話を聞いた。本人はちっとも嬉しそうではなかったが、会社のお金で留学できるなんて、私からしてみれば、羨ましい限りだった。どうして興味のない兄が、会社のお金で行けて、本当に勉強したい自分が行けないのか、納得できなかった。2月、会社の指示どおり兄は中国へ行った。メールで学校の様子などを聞き、自分が留学したらどんなだろう、とあれこれ想像をめぐらした。
そして、突然やってきた4月1日。私の希望の象徴だった、香港の大スター、レスリー・チャンの死。誰かをまねるでもなく、媚びるでもなく、いつも自分を信じ、自分らしく生きたレスリー。
私は彼を失ったと同時に希望をも失った気がしていた。しかし、彼はもう戻って来ない。ゆっくりとこの現実を受け入れ、そして、私は決めた。私は、まだ生きている。後悔しないよう、自分の道を歩もう。レスリーのように、自分に正直に生きよう。と。
兄の留学と一人の香港スターの死。全く異なるこの二つの出来事が、中国留学、しかも子連れで、という無謀とも思える夢を私に決心させた。
夢とは、留学である。
もともとは広東語を習っていたのだが、香港へ行ってCDを買ってくるたび、中国の標準語である普通話(プゥトンファ)の曲も入っていたため、次第に普通話にも興味をもつようになり、広東語と平行して勉強するようになった。
その後、結婚や出産で何度か中断したが、なぜか普通話の方だけは途切れ途切れながらも、勉強を続けていた。いつか香港か大陸で、勉強できる機会が訪れることを願っていた。
子育てに追われていた2003年のお正月。兄が中国に派遣されるという話を聞いた。本人はちっとも嬉しそうではなかったが、会社のお金で留学できるなんて、私からしてみれば、羨ましい限りだった。どうして興味のない兄が、会社のお金で行けて、本当に勉強したい自分が行けないのか、納得できなかった。2月、会社の指示どおり兄は中国へ行った。メールで学校の様子などを聞き、自分が留学したらどんなだろう、とあれこれ想像をめぐらした。
そして、突然やってきた4月1日。私の希望の象徴だった、香港の大スター、レスリー・チャンの死。誰かをまねるでもなく、媚びるでもなく、いつも自分を信じ、自分らしく生きたレスリー。
私は彼を失ったと同時に希望をも失った気がしていた。しかし、彼はもう戻って来ない。ゆっくりとこの現実を受け入れ、そして、私は決めた。私は、まだ生きている。後悔しないよう、自分の道を歩もう。レスリーのように、自分に正直に生きよう。と。
兄の留学と一人の香港スターの死。全く異なるこの二つの出来事が、中国留学、しかも子連れで、という無謀とも思える夢を私に決心させた。