お大事にしてください
「部長。」
聞き慣れた声だ。振り向くと、そこには美鈴がいた。
「な、なんでここに。」
「あれ?私の家、すぐそこなんですよ。ご存じなかったんですか?」
驚く六郎に、冷静に答える美鈴。実に対照的な二人だ。
「あ、いや、そうか。君の家はここの近所か。」
そう言いながら、いつぞやの忘年会でそんな事を話されたのを思い出した。
「どうしたんですか?こんな時間に・・・。」
六郎が答える必要もなかった。美鈴はカゴの中にある牛乳を見て笑っている。
「大変ですね。奥さんに頼まれて・・・。」
「あ、いや、これは・・・。」
「いいんですよ。今や男の人が家事を手伝うのなんて普通ですよ。部長の世代ではあり得ないかもしれないですけどね。いいなぁ、奥さんは大切にされて。私も部長みたいな人と結婚したいなぁ。」
やけに饒舌だ。
少しではあるが、アルコールの匂いが鼻をかすめた。
(酔っているのか?)
六郎は知っていた。美鈴は決して酒癖の良い方ではない。今、この場で、美鈴にかまっているのは得策ではない。
「じゃ、私は急ぐから。」
そのまま、その場を立ち去ろうとした。
「そんな、部長。もう少し、一緒にいましょうよ。」
六郎は左手首をギュッと掴まれた。
「ほら、買い物したものを持って帰らなくちゃいけないから。」
振り払いたい気持ちを抑え、やさしく美鈴に言った。が、酔った美鈴には通じない。六郎は困り果てた。周りの客も、二人の事をジッと見ている。
(はぁ・・・困った。どうすればいいんだ?)
薬の事がなければ、きっと軽くあしらう事が出来ただろう。過去に流した浮き名は数知れない。それが六郎のちょっとした自慢だった。
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