不良
 まるで夢のような出来事だった。春男は夢かと思った。しかし口の中では、鉄錆のような味の生暖かいものがあふれてきていた。ベッと吐くと、真っ赤な血が飛び散った。

 春男を蹴って、殴った若い男は、飛ぶようにして雑踏に消えていた。通りすぎる人が白いイヤな目を向けてくる。「なにをみてけつかる。」と思い切り、叫びたかった。

 春男は小走りになって、便所へ駆け込んだ。幸いにも洗面所に誰も居なかった。口をゆすぐと、洗面器がピンクに染まった。顔を洗って天然パーマの髪を濡れた指でとかした。
 六時前になっていた。気をとりなおしてバイトに精をだした。バイトは約五十分の短い労働だった。繁華街の飲食店にビールケースを届ける仕事である。軽トラックでスナックや居酒屋をまわり、助手席の春男が一々ビールを運び入れるのだ。

 このバイトは新世界のカラオケ仲間に誘われてはじめた。もう三ヵ月働いている。日当は一時間だから多寡が知れている。店主は春男の顔をチラッとみたがなにもきかなかった 春男は店主から現金で日当をもらうと、地下鉄に乗って動物園前駅でおりた。

 夜の七時、八時は新世界の賑わう時間帯だった。しかし路上のカラオケに興じるのは、一部のその筋の人たちだけだった。遠巻きにして見物しているのは、スーツ族と女連れの親父連中だった。見物客の多くは、串カツ有名店に立ち寄った帰りであったりした。

 春男は馴染みのお姉さんやお兄さんに会釈しながら、缶ビールを自販機で買っては、チビリチビリと飲みつつ、先客の歌をきくのだった。

 やがて春男にも番がまわってきた。得意の石原裕次郎をきかすと、周囲の見物人から、ヤンヤヤンヤと喝采が起きた。中には、缶ビールの差し入れをしてくる常連のおばさんも居たりして、なかなかの人気ぶりであった。

 遠巻きにしている連中の輪が左右にわかれた。なにか事件が起きたらしい。

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