ゆうこ

 名前は知ってるけど、読んだことはなかった。 三年生になると、国語の教科書に出てくると聞いたことがある、優子がそう答えると、
 「その人の書いたのに『人間失格』てのがあってね、私のことみたいだけどね、そん中にこんな言葉があるんだよ・・・」
 そう言うと今井は、改まった口調で呟くように本の中の文章を復唱した。 
 
 「互いにあざむき合って、しかもいづれも不思議に何の傷もつかず、あざむき合っていることにさえ気がついていないみたいな、実にあざやかな、それこそ清く明るくほがらかな不信の例が、人間の生活には充満しているように思われます」
  今井はそこで息を継いで、ちょっと間を飛ばすけどね、と言った。
 「自分には、あざむき合っていながら、清く明るく朗らかに生きている、或(ある)いは生き得る自信を持っているみたいな人間が難解なのです、ってね。 意味判る? まだ判んないかも知れないね」
 
 優子は判ると思った。 仲の良さそうな友達を見ていても、離れたところではお互いの悪口を言い合ったりしているのに、又会うとお互い友達だと手を握りあったり、一人が本当に困っている時でも、何のかんのと理由を付けて関わろうとしなかったり、それでも長い間付き合いが続いていたりして優子には理解できないし、継母が来てからも、偶に家族で遊園地へ行ったり、ファミリーレストランで夕食を食べたりしたことがあったけれど、廻りに人がいると、継母は家にいるときと違って優しい言葉遣いで、きっと知らない人が見たらほのぼのとした家族と思っただろう。 優子が継母に懐(なつ)かなかったのは、死んだ母への思い以外にそんな不信もあった。
 優子は、何となく判るような気がする、と答えた。
 
 「でもねえ、こんな話ししといて今更何だけど、あんまり判らない方がいいんだよ。 そんな風に思っちまって、それでもいいやって割り切れないと、生きてくのが難しくなっちゃうんだよ、私みたいにね。 これでも色々頑張ったんだけど、この社会、何処を切っても金太郎飴(あめ)みたいに、損得損得だからね、疲れちゃったんだよ、でこんな生活してるのさ」 
 今井はそう言うと、ボロボロになった財布の中から用心深くそっと一枚の写真を取りだすと、優子の前に置いた。
 

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