姓は寿限、名は無一郎
「ここにいる尼にも、かなしい生い立ち、苦しい生活に追われ、昔を忘れる者が居て、もしや…と案じたのであるが」と、パンと両手を叩いたら、さっきの若い尼僧が現れた。
「月華さま、御用は」
「清蓮さん、硯箱を」
硯箱を持って戻った清蓮は、小さな文机も下げている。そして、墨を擦ってから立ち去った。一瞥するまでもなく、顔貌、立ち姿、非の打ち所のない別嬪だった。
「私は大小山・円鏡智寺の月華と申す尼。が、そなた様は名乗れぬようで、お困りと見受けた」そして、半紙に何やら書き連ねている。
「月代が伸び放題ゆえ、浪々の御身分と存じるが」と、しばし顔を上げて彼を凝視した。
「そなたには似合いの名が有る」と、可笑しくて笑い出すのを堪えている。
「どうじゃな」半紙に、それは達筆で書かれていた。
「命名、ジュゲム、イチローですか?」
「じゅげむ?何のことだか…姓は寿限、名は無一郎と読みなさい。生きとし活ける者の命は儚いようで、これ実は限りない。また人は、無一物で生まれ、無一物で去るのだ、何も覚えて御座らぬそなたには、これ以上の姓名は無かろうて」思わず、輝いた顔のままで畳に額が着くほどに頭を下げた。
「ありがとう御座います」私は、いま生まれた…男は、そう心を決めた。それは、まさしく武士の『覚悟』に相違ない。
「さきほど、ここに芽を出したばかりの私の迷いは、これで幾らか断ち切れました。この名に悖らない生き様を心懸けたいと思います」
「それが良かろう」有無も言わせず、トントンと事は運んだ。そこに情緒なんか入る隙も有りはしない。悩み苦しんだから事態が改善するなら、それも善かろうが。
真ん中に、こぢんまりとした坪庭が有って、そこは石庭なのであるが、一本だけ立葵が植えられ、その見事な、大輪の花が鮮やかだった。しかし、眼を醒まさせた花の香気とは、すこし違う。はて、何の花やら…記憶が空っぽなのに、それを初めて嗅いだように無一郎は感じた。