姓は寿限、名は無一郎
翌朝には、驚異的な回復力で起き上がって、七つ頃には寺を辞することに決め、いとまごいのため客間で待っていた。ユラユラ揺れている坪庭の立葵に見とれながら、あの頼り無い花でさえ、居場所が有って、ちゃんと、そこに根を下ろしているのに…と、わが定まらない身の上を思っていた。
そこに例の若い尼が現れた。立葵を剪定鋏で摘んで、水瓶に差しているのだ。眺めていて、ハッとした。孕んでいる…あきらかに屈んだ折に、体の輪郭が浮かんで、それは妊婦の姿だった。観てはならないものを無一郎は見てしまった。
「親類筋からの見継ぎも無かろう」と、一朱金と銭百文一緡(さし)を餞別に戴いた…月華尼は、無一郎に、名ばかりか装束まで用意してくれ、当座の凌ぎにも困らないように手を尽くしてくれた。この御恩に報いてみせる、名を惜しめばこそ…と、真新しく、まだ何も中身の詰まっていない「寿源無一郎」という姓名に誓うのであった。
先日は、運が良いと言うべきか、何と言うべきか…檀家の総代が、崩れかけている寺の土塀の修繕に関して、費用や、寺社奉行への諸々の手続き、等々の相談に訪れた。そこで偶々、話題に上がった、この薄幸の人物の後見に成っても良いと申し出て呉れたのである。寺から南に1里ほど、深川界隈に何軒かの長屋を持っている大家で、裏長屋の一つに空き部屋が有るというのだ。
まるで、無一郎を誘き寄せるかのように、トントンとコトは成り、一条の光が射し込まなければ、いまも途方に暮れていたのである。そう思い、気を整えるのが得意な人らしい。勢い…それを自ら作れてこそ、一人前だ。