姓は寿限、名は無一郎
 長屋を、探しがてら迷い込んだ筋から長唄が聞こえる。枯れっぷりから若くない上手な声に、色っぽいが老け込んでいない下手な方が追う。小雨だったが、降ってきたのを幸いと、茶碗屋の軒先で雨宿りと決め込んで、聞き耳を立てた。

♪ 和田の原
波路遥かと夕凪に
龍の都を出汐の
寄するも八十の
浦島があとに
引かるる恋衣
濡るるも
夢と父母に
のりじの
海の船唄や
沖の州崎に
蜑の小舟が
誰が恋風に
独り焦がれて
よんやさ
ゆたのたゆたの
しょんがいな
磯部離れて
木曽路山
寝覚心に辿り来る
袖に梢の
移り香散りて
花や恋しき面影の
さっと吹き来る春風に
霞が生める
初桜

花の色香に
つい移り気な
菜種は蝶の露の床
忘れかねたる
比翼の蝶の
情け比べん仇桜
雪か雲かと峯の花
せめて薫の
便りもがなと
思い暮らして
恋すちょう
空定めなき花曇り
うつつ白浪
幾夜か恋に
馴れし情も
今では辛や
独り寝の
ほんに思えば
さりとは
さりとは
昔恋しき
浪枕うたてさよ

実にや七世の
波路を越えて
蓬が島の浦島が
尽きぬ契りを
語る家土産 ♪

 これも、以前に確かに彼は聞いていた。誰が、いつ、どこで弾き語ったのかは思い出せなかった。茶碗屋の店主が、茶碗を勧めに出て来る。
「この大炊模様なんぞ如何で?」
「ほぉ」洒落た雪の結晶模様が釉薬で描かれている他は、どおってことの無い湯飲み…一目で気に入って、それを無一郎は買ってしまった。
「熱い茶も涼しい顔で頂けます」まぁ、水瓶から柄杓で直に呑むよりは、器に入れておけば、畳の上で呑める。
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