ジェネシス(創世記)
卒業後、私は「司祭者」になる道を選択した。愛する女性と結婚し、そして二人の息子にも恵まれた。司祭者の職務に就いてから、過去の反省が続いた。
あの時、中学校に通いしっかりと学んでおくべきだったと、今では後悔している。引きこもっていた時代に、積極的に独学でも良いから何かを学ぶべきだった。何もしなかった自分が悪いのだ。
司祭者として活動する傍ら、中学校で「聖書」を教えている。先祖たちから語られてきた言葉を、生徒たちに書きつづらせた。それが私の、生きた理由であり使命だ。
私の二人の息子は、自分とは反対に、馬を乗り回す暴走行為に明け暮れた。仲間と一緒になって走りまわっていた。止めはしない。
止めるだけの説得力は、自分にはない。けれども、悔いのない生き方だけは教えたつもりだ。
走る以上は、自分の責任で走るようにと教えた。それが自己責任というものだ。親には、決して迷惑をかけるな。
自分のことを棚にあげて、息子のことをしかることができる立場ではない。いや、それでも息子はしかって欲しいのであろう。
強がってはいるが、親や教師や周囲から、かまってもらいたいのだ。寂しがっているのだ。それが子供なのだ。
あの時、中学校に通いしっかりと学んでおくべきだったと、今では後悔している。引きこもっていた時代に、積極的に独学でも良いから何かを学ぶべきだった。何もしなかった自分が悪いのだ。
司祭者として活動する傍ら、中学校で「聖書」を教えている。先祖たちから語られてきた言葉を、生徒たちに書きつづらせた。それが私の、生きた理由であり使命だ。
私の二人の息子は、自分とは反対に、馬を乗り回す暴走行為に明け暮れた。仲間と一緒になって走りまわっていた。止めはしない。
止めるだけの説得力は、自分にはない。けれども、悔いのない生き方だけは教えたつもりだ。
走る以上は、自分の責任で走るようにと教えた。それが自己責任というものだ。親には、決して迷惑をかけるな。
自分のことを棚にあげて、息子のことをしかることができる立場ではない。いや、それでも息子はしかって欲しいのであろう。
強がってはいるが、親や教師や周囲から、かまってもらいたいのだ。寂しがっているのだ。それが子供なのだ。