てとてとてと
3月15日
 芳しい匂いに誘われて、
 うだうだとのしかかる眠気を押し退けた。

 今日は珍しく目覚ましが鳴らない。こんな日もある。

 吾妻幸介の朝は充実している。

 基本的には和食で希望すれば洋食も可だし、
 目覚ましより正確で優しく起こしてもらえるし、
 遅刻や空腹とは無縁の朝を迎えられる。

 ふと謝りたくなった。

 こんなに贅沢でごめんなさい。

 寝巻を脱ぎ畳んで着慣れた制服の袖に腕を通す。

 特筆すべき印象のないブレザーやワイシャツも、今日で着納めかと思うと感慨深い。

 長かった一年間が、今日で終わるのだ。

 鏡の前でネクタイを締めると、
 普段より気を引き締めてドアを開けた。

 朝の第一声は爽やかに。

 階段を上ってくる音が、廊下に出たとたん聞こえてくる。

 どうやら着替えに時間を掛けすぎたらしい。


「おはようございます」


 しかも挨拶まで出遅れた。
 いや、競うこと自体無駄なのだが。
 早起き料理家事全般、すべてをこなす穂積家のライフライン様。


「おはよう彩音姉さん」

「朝食の支度は、もう出来てますよ」


 わかっています。先程からお腹が鳴りそうだから。


「おじさんはもう起きてるの?」

「下でカメラのレンズを磨いていますよ」


 疲れたように言う。

 穂積のお父さんは大変な親馬鹿だ。

 目に入れても痛くないどころか、どんとこいと胸を張れる人だ。

 彩音も苦労する。

 そんな姿を十年近く、傍で見てきたからよく分かる。


「そ、それじゃあ早く食べましょう?」


 誤魔化したな。

 つらい現実に立ち向かうため、早足に階段を下りていく穂積彩音。

 それにしても、エプロン姿がよく似合う。
 階段を下りていく後ろ姿を見ながら、そんなことを思った。

 同年代で二ヵ月早く生まれたから、という理由で姉さんと呼んでいる人だったが、こうして見ると姉というよりは母親だ。


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