抵抗
その日の三時。約十五分のお茶休憩がある。和己は照江に手招きされた。裏庭で渡されたのは、シルバー専用の携帯電話である。「何か困ったら、電話するんや。番号は登録してもらってる。ええか、こうやって一番を押すと、うちの家にかかるのや。」和己は胸が熱くなった。息が止まりそうになった。そして、鼻から、涙が流れてきた。

「お前のことや。どないしても家をでる気やろ。もう、誰もとめられへん。そやから、せめて電話だけでも持って行って欲しいのや。それと、これは生活費や。わしの年金やから気兼ねはいらん。これだけあったら、当分は大丈夫や。」と一万円札を五枚くれた。

和己は雅美には、何もいわなかったし、計画のことも打ち明けなかった。照江に携帯を貰ったことや、金を貰ったことも一言ももらさなかった。

翌早朝、和己は人知れず家を抜け出ると、一番の阿倍野橋行きの電車に隠れるようにして乗り込んだ。車内は一つの車内に一人か二人の乗客である。春男の斜め前の老女は行商人である。余程朝が早かったのかして熟睡している。座っている座席には、商売用の野菜の入った竹籠が置かれていた。

車窓は遠くに山並み、近くに田畑が見え隠れしている。和己はこれからのことを考えた。<まず宿屋や。JR新今宮駅まで歩く。>と自分で計画して書いたメモを確かめた。ガタンと電車がレールに何かひいたらしい。その拍子で、行商の老女が夢から覚めた。

「お早うさん。ぼく、一人かいな。偉いな、何処まで行くんや。」というと、竹籠からトマトを取り出して、和己に手渡した。そして、老女は和己の横へ座りなおした。和己はトマトを持ったまま、「おおきに。阿倍野まで行くねん。」と行き先を答えた。

「阿倍野かいな、阿倍野はええとこや。ばばも、住んでたこともあるねん。」「ほんまですか。阿倍野の何処ですか。」「旭筋や。旭通りという坂道があるねん。そこに長いこと住んでた。」和己は旭通りがどんな場所で、何があるのか、まったく知らなかった。やがて、電車はKという乗り換え駅に着いた。老女は荷物を背にかけて、去って行った。
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