夢みる蝶は遊飛する
最近、よく思い出す。
バスケ選手としての死刑宣告をされた時のことを。
私は、皇ヶ丘学園中等部、女子バスケ部の一員だった。
父の薦めでミニバスをやっていた私は、小学6年生のときに出場した大会で皇ヶ丘学園の関係者の目に留まり、是非わが校にととスカウトされた。
公立の小学校に通い、4月からは公立の中学校に進学するはずだった私の人生は、そこから変わった。
他人よりも少しバスケが上手だっただけの私は、特待生として名門皇ヶ丘学園に入学した。
家柄もなにもない、ただバスケの能力しか持たない私は、名だたる政治家の御曹司や、大企業の令嬢の群れの中に、身ひとつで放りこまれたのだ。
向けられる視線は、決して好意的なものだけではなかった。
けれど、血の滲むような努力をし、その結果スターティングメンバーに選ばれるまでになった私を蔑む人間はいなくなった。
成功率5割と言われる3ポイントシュートは、私の武器だった。
皇ヶ丘にも、他の学校にも、中学生で私より成功率の高いプレイヤーはいなかった。