夢みる蝶は遊飛する
教えられた病室の前までたどり着いた。
患者のプライバシー保護のため、病室前にネームプレートを貼らない病院が増えているのは聞いたことがある。
ここもそうらしい。
温かみのあるクリーム色の壁には、父の名を示すものはなにも無い。
中からは、物音ひとつ聞こえなかった。
鞄の持ち手を掴む手が汗ばんでいるのを感じる。
コートを掛けた左手は、小刻みに震えている。
唇は冷たく、喉は渇ききってひりひりと痛む。
―――帰りたい
ここまで来て、そう思ってしまった。
言い知れぬ恐怖が、絶え間なく襲いかかってくる。
この扉を開けてしまえば、もう後には戻れない。
築き上げた関係を壊してまで、ここに来ることを決意したのに。
一歩踏み出すことだけが、できないでいる。
足が床に張り付いて動かない。
指一本すらも、自由がきかない。
息苦しくて、めまいがした。
私はしばらく無機質な廊下で立ちすくんでいた。