夢みる蝶は遊飛する
沈痛な面持ちの看護師に呼ばれ、私たちは再び病室内へと足を踏み入れた。
ほとんど沈んでしまった夕陽の、ひとすじの光が窓から射し込んでいる。
父の顔にかかるそれを遮るように私は立った。
酸素マスクをした父を見つめていたら、こらえきれない感情の波が訪れ、心の中を切り裂きながら暴れ出した。
崩れ落ちるように床にひざまずき、父の痩せた左手をしっかりと握った。
まるで私の命を、父に分け与えるかのように。
もう父に助かる見込みはないことがわかっていても、私にできることはそれだけだった。
ふたつの指輪をした父の薬指を撫ででいると、不思議と心が落ち着いてきた。
失うことに怯えて縮こまっていた私の心は、父の永遠の安楽を願っている。
夏希さんは、涙に濡れた声で父の名前を呼び続けている。
父はもう新しい世界へ飛び立とうとしている。
これだけは言いたかった。
私が父にどう思われていても、私たちの間にいまだに大きなわだかまりがあるのだとしても、これだけは伝えたかった。
「お父さん、大好き」
ありがとう、と。
私はそれを、母が息を引き取る前には言えなかった。
そのことをとても後悔していた。
父が、その言葉を母に伝えてくれればいい。
父を天上へと連れていくのは、母であってほしいと思った。
父を、この世に縛りつけるものはもうなにもない。