夢みる蝶は遊飛する
“おかあさん”は、私の頭を優しく撫でてくれる、綺麗な人だった。
“おとうさん”は、私と暗くなるまで遊んでくれる、元気な人だった。
私は二人が大好きで、二人からも溢れんばかりの愛情を注がれていたことを、幼くても感じていた。
けれどやっぱり私は、両親とは一緒に暮らせなかった。
そのうちに知った。
普通は、“おとうさん”と“おかあさん”と一緒に暮らすものなのだと。
それが家族という形態なのだと。
職員と一緒に買い物に行って、向けられる奇異なものを見るような瞳。
あの頃はそれがなにを意味するのかわからなかったけれど、今ならわかる気がする。
あれは、親と一緒に暮らせない子どもを憐れむ瞳、同情の証。
親に捨てられた可哀想な子どもを見る、一種の優越感を伴った卑しい視線。
今でも、児童養護施設で暮らす子どもは、親に虐待されたか、捨てられた子どもだと思いこんでいる人間がほとんどだ。
けれど、それは間違っている。
そればかりが施設に預けられる理由ではない。
私も、施設で暮らしているからといって、両親に捨てられたわけではなかった。
ただ、一緒に暮らせなかっただけ。
そう思いたいと願っている自分がいた。