夢みる蝶は遊飛する
「お疲れ、亜美ちゃん」
不意に、聞き覚えのある声で名前を呼ばれた。
水を止めて振り向くと、長めの黒髪と端正な顔が目に入る。
「ヒロくん・・・もう終わったの?」
彼は外庭の掃除だったはずだ。
マフラーを巻いて嫌々歩く沙世を連れて教室を出ていくのを見ている。
「亜美ちゃん、ちょっとこっち来てくれる?」
私の質問には答えずに、手招きをした。
私は頷いてから雑巾を絞り、彼の後に続いて階段の踊り場まで歩いた。
一段昇るごとにひどい疲労感に見舞われ、ふらつきそうになるのを耐えた。
まくっていた袖を直している私を見つめて、ヒロくんはなぜか無駄に笑っている。
そして彼は、唐突に話を始めた。
「俺は、亜美ちゃんにどうしたのなんて訊く気はないよ。訊いたとしても亜美ちゃんはたぶん、俺には言わないだろうしね。
あ、べつに、信頼してくれてないっていう意味じゃないから」
聞きながら首を傾げる。
彼がこんなことを話す、その意図がわからなかった。