愛ノアイサツ
僕の足は無意識に中庭に向かっていた。なぜだかわからない。もうとっくに、顔だって思い出せないくらい昔の記憶。
でも、なぜだろう?こんなに心臓が脈打つ。手足が硬くなる。

今だって顔すらよく見ていない。斜め後ろから見ただけだ。それでも、僕の足は進むことを止めなかった。


「あの・・・。」

ステージに立っているときの数倍は緊張していた。でも返事はない。
更に勇気を振り絞って体をかがめて顔を覗き込んでみた。長い睫毛が伏せられ規則正しい寝息が聞こえる。

「寝てるのか・・・。」

おだやかな寝顔に拍子抜けして、一気に気が抜けた。なんで僕はこんなにも緊張しているんだろう。

立っていることに疲れて寝ているその隣に座る。改めて一息ついて、つい癖で取り出そうとしていた煙草を再びスラックスのポケットに突っ込んだ。

僕は何をしているんだろう。こんな病院の中庭で、なんとなく気になってしまった女の人に声をかけて、寝ている隣にいきなり座り込んで、普段の自分では考えられない。もう用はないんだから、早くマンションに帰ろう。

立ち上がろうとしたとき、手になにか当たった。なんだろうと見てみると、それはCDケースだった。

「エルガー・・・。」

クラシックのCDのようだ。寝ているのを再度確認してそっとそのCDケースに手を伸ばす。

バイエルン舞曲、エニグマ変奏曲、弦楽セレナード・・・


愛の挨拶・・・・・・

「この曲は・・・。」

そうか、この子は・・・・・

「はっくしゅっ!」

突然くしゃみをされ僕は驚きでCDケースを落としそうになった。久しぶりに肝の冷える思いをした。まだ四月だが日が傾いてくると肌寒い。それにこんな薄着の状態で外で寝ていれば風邪も引くかもしれない。

「全く・・・何をしているんだろうな、僕は・・・。」
< 12 / 39 >

この作品をシェア

pagetop