脱走犬物語
「だいじょうぶか?ワンちゃん」

物置の奥のほうでだれかの呼ぶ声が聞こえます。散らかったガラスの空き瓶や新聞紙の間を縫っていくと、そこには小さな穴が開いていて、誰かの小指が見えます。気がつくと、ボクは泣いていました。その昔、ボクは家の近所を通るパン屋さんの車のメロディに合わせて、ハミングしていたことがあります。今となっては、ノドはかれ、あんなに甲高い声は出なくなっていたというのに。この深いとばりが、ボクの脳みそを刺激したのでしょうか。

「クゥーン!キャン!」
「まってて!」

しばらくすると、物置がガラガラと明けられ、ボクは小さな誰かの手によって抱きかかえられていました。暗くてよくわからなかったけど、目の前にはつぶらな瞳をした男の子が立っています。彼はランドセルからコッペパンを与えると、僕にくれました。ボクは夢中で口をつけましたがやっぱり噛み切れず、吐き出していました。男の子は、それに気がつくとすぐに自分の口にパンを含み、ツバで粉々にしたものをボクにくれました。おいしくて、おいしくて、僕は夢中でそのちっちゃなパンを頬張りました。大きかったコッペパンはあっという間に、ボクの胃袋におさまりました。どうやら、まだ食欲はあるようです。少し元気になりました。

「かわいそうにな。捨てられてたのを、ここのババアに拾われたのかな?」
男の子はボクの瞳を一点に見据えてきます。ボクは言葉をしゃべることができません。

「ウチでは飼ってあげられないんだ。ゴメンな。でも、いいところに連れてってあげるからな」

そう言って、男の子はボクを担ぐとトボトボと歩き始めました。遠い昔、けんちゃんにも、こんな感じで拾われたのをボクは思い出しました。
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