危険な誘惑にくちづけを
 わたしは涙をふきふき、加藤先輩を見たけれど。

 そのわたしの顔が、とても不思議そうに見えたみたいで。

 加藤先輩は、何とも言えない複雑な顔をすると、静かに言った。

「……おびえたんだ」

「……え?」

「あんたが来る前に、最初にオカマがここに来たんだけど……
 薬で軽く混乱していた紫音さんは。
 あのオカマを見た途端におびえて、パニックって……
 鎮静剤が効く、さっきまで大変な騒ぎだったんだ」

 だから、今。

 紫音は、病室で眠り。

 薫ちゃんには、紫音から見えない場所に席を外してもらっているんだ、と先輩は言った。

「……ウソ……でしょ?」

 信じられなかった。

『あの』紫音が、薫ちゃんを見て『おびえた』……怖がった?

 そんなはず、あるわけない!

 だけども。

 紫音は、眠りに落ちて意識はなく。

 こんな時には、必ず。

 紫音に付き添っていそうな薫ちゃんの姿は、なく。

「ウソ……だよね?」

 一気に不安になったわたしに、納得行く説明をしてくれる人は。

 ここには、いなかった。






 
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